日刊鹿島アントラーズニュース

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2023年3月11日土曜日

◆ルヴァン杯初戦初ゴール、松村優太が語っていた2023シーズンの決意「“鹿島歴”4年目だと上のほう。勝たせる選手に」(サカノワ)



松村優太


「自分が中心になっていこうという自覚はあります」


[J1 4節] 鹿島 – 福岡/2023年3月12日15:00/カシマサッカースタジアム

 J1鹿島アントラーズの松村優太が3月8日のルヴァンカップ・グループステージ(GS)初戦の柏レイソル戦で今季公式戦初先発を果たすと、22分、持ち味を発揮する重心の低い重戦車ばりの中央突破から豪快に先制ゴールを突き刺してみせた。ただ90分に細谷真大に決められ、結局試合は1-1でドローに。両チーム1ポイントを分け合った。

「今年はタイトルを獲ることができる選手が揃っていると思います。自分たち次第。そのなかで今までのシーズンとは違う、自分が中心になっていこうという自覚があります」

 開幕前、松村はそのように2023年の目標を語っていた。

「もちろんこのチームで活躍することが大前提で、今年は(パリ)オリンピック予選など代表の活動も佳境を迎えます。そのサバイバルも頭の片隅に置きながら、去年はケガでなかなかできなかったので、1年通して戦うこと。そして結果を残していくこと。それが大事になっていきます」

 そのように来月22歳の誕生日を迎えるプロ4年目のアタッカーは、鹿島での自覚を口にしていた。

「鹿島の選手の顔ぶれを見ると、“鹿島歴”4年目だと割と中堅、けっこう上になってきます。なので、自分たちが勝たせる選手にならないと。荒木(遼太郎)も、染野(唯月)も、若い選手も多くいます。そのフレッシュな力を、もっと、チームに還元していきたいです」

 ちょうどチームがプレシーズンで勝てずにいた時だったが松村は「まず1点。そして勝利。そこで自分がいいキッカケを掴み、いいスタートを切りたいです」と語っていた。

 その“まず1点”はルヴァン杯初戦でクリアした。結果を残したことで、鹿島の流儀でいけば、チャンスが巡ってくるに違いない。リーグ連勝へ――12日のホームでのアビスパ福岡戦では、松村が勝利に導く活躍が期待される。




◆ルヴァン杯初戦初ゴール、松村優太が語っていた2023シーズンの決意「“鹿島歴”4年目だと上のほう。勝たせる選手に」(サカノワ)






◆鹿島・岩政監督 「うちのチームは代表予備軍がたくさん」 日本代表招集に期待(スポニチ)



岩政大樹


 鹿島の岩政大樹監督(41)が11日、オンライン取材に応じ、15日に予定されている日本代表発表について「うちのチームは代表予備軍がたくさんいると思っている」とメンバー入りに期待していた。

 チーム内で最も勢いのあるMF佐野海舟(22)については「近い将来代表に絡むべき選手」と指揮官自ら森保監督に売り込みを慣行。「日本のサッカーで見落とされがちなボールを奪う能力があることを評価している」と続けた。

 所属している元日本代表選手についても状態が上向いているといい「植田直通、昌子源、安西幸輝も調子を取り戻していて代表に絡んでもおかしくない」とニヤリ。日本代表で選手層が薄いというサイドバック、GKについても言及し「常本佳吾、早川友基あたりもリストに挙がってきていると思う」とメンバー入りを期待した。

 黄金時代の鹿島と比較しても現戦力は充実していると岩政監督。「以前、僕たちがいたときのように、鹿島で試合に出れば代表だといわれるような、あの選手層に少しずつなってきた。継続して呼ばれる選手をどんどん輩出したい」と意気込んでいた。





◆鹿島・岩政監督 「うちのチームは代表予備軍がたくさん」 日本代表招集に期待(スポニチ)





◆【鹿島】快足ウインガー藤井智也、本拠地カシマで2戦連続ゴールへ。「相手を崩せるように、たくさん走りたい」(サッカーマガジン)



藤井智也


3月10日、鹿島アントラーズの藤井智也が練習後のオンライン取材に応じた。前節の横浜FC戦では攻守がかみ合い、アウェーで白星を挙げた。8日のYBCルヴァンカップ柏レイソル戦から中3日で行なわれる第4節アビスパ福岡戦では、今季のホーム初白星を狙う。


福岡の印象。「球際に激しく、とても力強い」


 前節の横浜FC戦では、鹿島の背番号「15」がチームに勝利をもたらす先制点を挙げた。右サイドでそのスピードを存分に示し、移籍後初ゴールを記録。次はホームのカシマスタジアムで、藤井智也がリーグ戦2試合連続得点を狙う。

「(福岡には)身体的に優れている選手が多くて、球際に激しく、とても力強い印象があります。相手のストロングポイントを出させないためにも、相手に後ろ向きの守備をさせて、裏を突いていくことがすごく大事になると思っています」

 10日にオンライン取材に応じた藤井は、そのように福岡戦へのイメージを膨らませる。今季初のリーグ戦連勝を果たすためにも、ホームの声援を受けて福岡を迎え撃ちたいところだ。

「ホームでの試合なので、サポーターの皆さんとしっかりと勝ち点3を取って、喜ぶことが大事です。福岡は今、流れに乗っているチームで押せ押せムードもあると思うけれど、しっかり前線の選手たちで相手を崩せるように、たくさん走りたいと思います」

 今季初めて、ホームのファン・サポーターに勝利を届けるために、藤井は12日の福岡戦でもカシマスタジアムのピッチ上を疾走する。




◆【鹿島】快足ウインガー藤井智也、本拠地カシマで2戦連続ゴールへ。「相手を崩せるように、たくさん走りたい」(サッカーマガジン)






◆「まさか、ここに龍がいたなんて!」鹿島で引退を考えた遠藤康(34歳)が故郷・仙台で“あの石巻の少年”と再会…3.11がつなぐ物語(Number)



東北人魂




 2011年、復興支援を目的に東北サッカーの普及に尽力してきた「東北人魂」。いつか、子どもたちの中からJリーガーが現れてほしい――発起人である小笠原満男らは、そんな思いを胸に活動を続けてきた。
 発足から13年目の今年、当時参加していた少年の1人がついにJリーガーになった。チームメイトになる遠藤康(34歳)の証言をもとに、“再会”までの道のりを秘蔵写真と共に辿る。


 再び東北人魂のイベントが石巻で開催されたのは2013年の1月だった。この頃には、すでに団体の規模は大きくなっており、全国の東北出身Jリーガーたちを募って、リーグのオフ期間に被災地をいくつか回るようになっていた。そのうちの一つとして、石巻開催があった。

 このイベントには、小笠原満男、今野泰幸、柴崎岳といった新旧日本代表選手を含めた総勢10人のJリーガーが参加していた。そこに、小学6年生になった菅原龍之助の姿があった。聞けば、この時のイベントは色濃く覚えているという。

「本当に知っている選手ばっかりだったので、興奮と、一緒にサッカーできているっていう純粋な楽しさでいっぱいでした。選手たちもところどころですごい技術を見せてくれたりして、刺激だらけでした。いつか僕もこうなりたいなぁって、子どもながらに感じた記憶があります」

 一方の遠藤康は、当時の思い出をこう話す。

「確か、今までやったイベントの中で一番小さな会場だったと記憶しています。だからこそ、選手と子どもたちの触れ合う時間がすごく長くて密で、いろんな話をしたんじゃなかったかな。しかしまさか、そこに龍(菅原)がいたなんて!」





サッカーをやめよう…悩んだ時に思い出す言葉


 この時、ベガルタ仙台のジュニアユースに入ることが決まっていたという菅原は、子どもたちの代表として、手紙を読んだ。イベントの最後には、お礼のメッセージを寄せ書きした旗を持ち、遠藤、小笠原らと記念写真に収まっている。

 その旗にはこう記されていた。

『たくさん勇気をもらったので、プロサッカー選手目指して頑張ります 6年生 龍之助』





 菅原は中学2年の頃、すべてが上手くいかず、ベガルタ仙台ジュニアユースでなかなか試合に出られない日々が続いていた。その頃、一度だけサッカーをやめたくなったことがあったという。

「当時、兄にサッカーをやめるべきか相談したんです。そこで“中途半端なままやめるのか”って言われて。そのとき、東北人魂の選手が言っていた『諦めなければプロになれる』って言葉を思い出したんです。諦めなければプロになれるっていうのを、俺が体現してやろう! って気持ちが湧いてきたことを、今でもすごく覚えています。きっとあの頃僕がプロ選手になるなんて誰も思っていなかった。だから絶対にプロになってやるって、そこからはがむしゃらでした」


 プロになって、子供の頃一緒にボールを蹴ったことを、東北人魂の選手に早く言いたい。菅原はずっとそう心に思っていたという。

「あの時の東北人魂のイベントで、小笠原選手と同じグループで、当時色々教えてもらったりしたのを覚えていて。小笠原さんが現役中に、僕もプロになりたいなぁって思っていたんです」

 しかし、菅原が高校を卒業するタイミングで小笠原は現役を引退。菅原は産業能率大に進学し、ようやくプロへの道が見えてきた矢先に、遠藤が鹿島から仙台に移籍をしてきた。

「もうこれは、お会いしたら絶対言おうって思っていたので、クラブでヤスさんに声をかけることができた時は『やっと言えた!!』ってすごく嬉しかったです」

 諦めないで叶えた、菅原の一つの夢だった。そしてそれは「東北人魂」の夢だった。




実は“引退”を考えていた遠藤


 一方の遠藤に仙台移籍当時の話を聞くと「本当は、引退しようと思っていたんですよね」と、意外な言葉を口にした。鹿島で選手生活を終えようと考えていた最中に、仙台からオファーが届いたのは、恐らく「運命」だった。

「鹿島にいるときは仙台でサッカーするイメージは自分の中では全くなかったです。でも、このタイミングで仙台に帰るということは、もっと恩返ししなさいよ、って誰かに言われてるのかなって思ったんです。現役選手でいることで、自分にしかできないことがサッカー以外にもまだまだあるのかなと。それで仙台に来たら、こうして龍に声をかけられた。僕が引退していたら、仙台に来てなかったら、そして何より龍が仙台でプロになっていなかったら、この出会いはなかった。だから、本当にこれは仙台に来る運命だったんだなぁって思っていますし、あの時、声をかけてくれたベガルタにはすごく感謝しています」





 そして遠藤は続けた。

「東北人魂を立ち上げた時も、その後も、満男さんが『この震災を風化させないために、やり続けることに意味がある』って、いつもいつも言っていたんですね。だから僕の中ではイベント規模の大きい・小さいは全く関係なくて、とにかく東北人魂が活動してるということを守りたい。その気持ちが一番です。そしてそれを続けていたことで、龍とのこういう出会いがあったので……試合のピッチだけじゃなくて、ピッチ外のところでも人と人が繋がると、やっぱりサッカー人生楽しくなるよね(笑)」

 遠藤ら東北人魂に関わった選手たちにとって嬉しい使者となった菅原は、プロとしてようやくスタートを切ったばかりだ。

「いつか“ベガルタと言えば菅原”と言われるぐらいになりたい」と話す彼にもまた、すでに東北人魂が宿っていた。

「僕が活躍すれば、たぶん震災のことなどを話す機会も増えると思うので、まずはしっかり試合に出て、FWとして点を取って、チームに貢献できるように頑張りたいです。そうすれば、僕の経験だったり、今までのサッカー人生で学んできたもの、成長させてくれたものを、今度は僕が子どもたちに伝えられる。それが宮城の、東北のサッカーの発展にもつながると思いますし、そこに貢献していけたらと思います。あとは、僕がここまで成長できたってことを、もっともっとピッチ上で、ヤスさんにプレーで感謝を伝えられればいいかなと思っています」


遠藤と並んで子どもたちの前に立つ菅原




 2023年1月6日――仙台のフットサル場でコロナ禍以降久しぶりに開催された東北人魂のイベントには、遠藤と菅原、2人の姿があった。初めて選手としてイベントに参加する菅原はどこか緊張気味で、遠藤はいつも通りの慣れた様子で元気有り余る子どもたちに大会の説明をし、自己紹介をした。そして菅原は自分の番になると、いつか子どもの時に聞いた言葉でこう挨拶をした。

「ベガルタ仙台の菅原龍之助です。僕もみんなと同じ、東北、宮城県の出身です」

 イベントは大会方式で、優勝したチームは遠藤や菅原らプロ選手とエキシビションマッチができることになっていた。

 試合が始まると、遠藤は早速何人もの子どもに囲まれながら華麗なヘディングやリフティングをして観客を魅了した。すると菅原も全速力でゴール前まで走り抜けると、オーバーヘッドキックを繰り出しゴールを決めた。その途端、会場は大歓声に沸き、菅原は一気に子どもたちのスターになった。

「ボールを蹴りながら、僕もこの子たちと同じ立場にいたと思ったら、自分が本当にプロ選手になったんだなと実感しました。だからあの時のような興奮を自分からも受け取ってもらえたらいいなと思って、ちょっと頑張りました」

 菅原はそう話すと、照れ臭そうに笑った。





「いつか東北人魂のイベントで触れ合った子どもたちの中からJリーガーが現れて、一緒にこの活動をしてくれる時が来たら最高だな」

 遠藤が、東北人魂に関わった選手たち皆が、ずっと望み、口にしてきた言葉だ。遠藤は言う。

「やっぱり、なんでも続けるって大事なんだと思います。だってこういうことが起こるんだから。改めてサッカー選手で良かったって感じています。だからこそ、これからもやり続けなきゃいけないし、やらなきゃいけないな、って思っています」

 菅原は子どもたちのリクエストに応えて2度目のオーバーヘッドキックを披露し、またしても会場を興奮の渦に巻き込んだ。ヘロヘロになりながら立ち上がる菅原を見て、遠藤は顔をくしゃくしゃにして笑っていた。





◆「まさか、ここに龍がいたなんて!」鹿島で引退を考えた遠藤康(34歳)が故郷・仙台で“あの石巻の少年”と再会…3.11がつなぐ物語(Number)

★2023年03月の記事まとめ(日刊鹿島アントラーズニュース)


◆「すぐに満男さんに言わなきゃ!」活動12年“東北人魂”にいた石巻の小学生がJリーガーに…新築の家が全壊した少年を支えたサッカー教室(Number)



柴崎岳




 2011年、復興支援を目的に東北サッカーの普及に尽力してきた「東北人魂」。いつか、子どもたちの中からJリーガーが現れてほしい――発起人である小笠原満男らは、そんな思いを胸に活動を続けてきた。
 発足から13年目の今年、当時参加していた少年の1人がついにJリーガーになった。チームメイトになる遠藤康(34歳)の証言をもとに、“再会”までの道のりを秘蔵写真と共に辿る。

 待望の時は、2022年の夏に突然やって来た。

 ベガルタ仙台の遠藤康は、練習前の軽いジョギングをしていると、ある若い選手から声をかけられた。

「あの……僕、子どもの頃、東北人魂のイベントに参加したんです」

 遠藤は思わず大きな声を出してしまった。

「えっ???」

 東北人魂とは、東日本大震災を受けて、小笠原満男ら東北出身のJリーガーたちが東北地方におけるサッカー発展のため2011年に立ち上げ、活動している団体「東北人魂を持つJ選手の会」の通称だ。

 いつかこの活動で触れ合った子どもたちの中からJリーガーが現れてほしい――参加している選手たちは皆、それを合言葉のように口にしながら取り組んできた。まさにその思い描いていた瞬間が訪れた時だった。

 当時まだ大学生で、内定先のベガルタ仙台に練習参加をしていた菅原龍之助は、遠藤に向かってこう続けた。

「石巻に最初に来てくれたイベントと、その後もまた石巻で……」

 遠藤は興奮を隠しきれなかった。

「石巻! 行った!! その時にいたんだ!! すごいな!! すごいよ!!」

 その話を聞いた後は、正直、嬉しさと感動で練習に身が入らなかったと、遠藤は笑う。

「もちろん当初の活動では復興支援が大前提でしたけど、選手の思いは、いつかはここからJリーガーが出て欲しい、その思いが一番にあったので。やっと出てきたなぁと思うと感慨深かったですし、何より早く(小笠原)満男さんに言いたい! って、そればかり考えていました(笑)」


故郷を襲った大震災「本当に現実なのか」


 2011年3月11日。その時、遠藤はバスの中にいた。

 生まれ故郷の仙台を出て、高校卒業から15年在籍していた鹿島アントラーズの試合のため、東京駅へ向かうバスの中だった。突然バスが止まると、大きな揺れを何度も感じ、やがて車内のテレビには津波の映像が映し出され、遠藤は言葉を失った。

「その時は何にも考えられなかったですね。自分の家族は大丈夫なのかとか、友達や知り合いも……いや、そういうところまで心配する余裕もなかった。だって、自分が想像もしていないことが起きているから。これが本当に現実なのか。まだ自分の目の前で起きているのであれば現実だと認識できるけど、テレビで見ていることだから、そこまでなかなか自分の中に入ってこない。どこか他人事だし、だけど自分の家族とかも関わっているしで、なんとも言えない不思議な感じでした」

 ショッキングな映像が立て続けに目に飛び込んできて、不安だけがどんどん増幅していく。しかし自分達も肝心の試合がどうなるのか、このあとどうするのかなど、車内は騒然としており、そんな状況に何から心配したらいいのか、頭が回らないような状態だったという。

「とにかく鹿嶋に戻ろうってことになったけど、高速道路は全部止まっていて、下道で十何時間かけて帰ったのを覚えています。その間も、電話は全然繋がらないし、自分の親にも連絡が取れない。だからクラブの寮に着いても眠れない。しかも、試合もまだあるのかどうかもわからないしで……どうしたらいいのかわからなかったですね」

 地震発生から丸1日経った頃、ようやく仙台に住む家族たちと連絡がつき、無事を確認することができた。





「もう大丈夫だよ、と聞けてひとまず安心はしましたけど、向こうはかなり大変そうでした。それでもやっぱり心配なので『俺も帰ろうか?』とは聞いてみたけど、来られても困るからいいよって言われてしまって。確かに1人増えるだけで必要なものも増えてしまう。居ても立ってもいられませんでしたけど、邪魔になるだけだなと、思い止まりました」

 その後Jリーグの中断が決まり、チームは一時解散。遠藤は家族のケアをしつつ、練習再開までの間は、静岡にある祖母の家に身を寄せていたという。



 2011年3月11日。その時、菅原は宮城県石巻市に住む小学校4年生だった。

 学校が早く終わった日で、放課後は当時通っていた、学校近くのそろばん塾にいた。そこで、激しい揺れに襲われた。

「そろばんをしていたらガーッと地震がきて……。そこからどうしよう、どうしようってなったんですけど、そろばんの先生が『学校にとりあえず行きなさい』って言ってくれたので、すぐに小学校に逃げました。僕の三つ上の兄も中学校が終わっていた時間だったので、小学校に避難してきて、そこに母も間に合って。その後は……学校から津波が来る様子を見ていました。車が流されたり、人が流されたりっていうのを見ていました」

 菅原の家族は皆無事だったが、その津波でクラスメイトや友だちの親などが犠牲になったという。

 地震発生から2日ほど、菅原はそのまま避難所となった学校で過ごした。

「まだその頃は道などに津波の被害にあった方の遺体があちこちに見受けられるとのことだったので、両親が僕たち子どもにショックを与えないように、先に自宅とその周辺の様子を見に行って、大丈夫そうだったら家に一緒に帰る、みたいな感じで、迎えに来てくれました」


建てたばかりの家は3カ月後に全壊


 当時見た町の光景は鮮明に覚えているという。中でも菅原は両親に連れられて自分の家に戻った時のことは忘れられないと話す。

「実は、12月に建てたばかりの自宅だったんです。それが3カ月後には全壊になってしまった。新しい家が一気にぐちゃぐちゃになっていた姿は、目に焼き付いています。1階は水で埋まってしまった感じでしたが、それでも2階は住めるような状況だったので、それからは2階に住みながら1階を直す生活になりました」





 電気や水道など、ライフラインの断たれた生活は5月まで続いた。親は家で火を起こしたり、修復作業をし、菅原は学校に支援物資を取りに行く係を務めていたそうだ。

「本当に、その2カ月は何もない日々を過ごしていました。被災してすぐの頃は『いつ学校始まるんだろう』とか、家の周りも本当に瓦礫がいっぱいだったので『これ、いつ直るんだろう』とか、時折ぼんやり考えたりしていましたね」

 5月になると、少しずつ好きなサッカーが菅原の日常に戻ってきた。スパイクやボールなどは全て流されて無くなってしまったが、支援物資として届いたものを使ってトレーニングができるようになった。そして2カ月ぶりに、菅原の所属する少年団のメンバーが集まりフットサル大会が開催されると、サッカーへの思いが溢れ出したという。

「とにかく『あー、やっぱりサッカーは楽しいなぁ!』って思ったのは、すごく鮮明に覚えています。これからもやりたいな、やっぱりサッカー好きだな、サッカーできるっていいなって、その時何度も思いました。久しぶりにみんなでプレーしたことが、サッカーへの思いをより強くしたのかなって感じています」

 その頃から、サッカーをはじめ色々なスポーツのイベントが、支援活動の一環として各被災地で催されるようになっていた。そのうちの一つとして菅原が参加した中に、遠藤との最初の出会いとなった東北人魂のイベントがあった。




たった1人で被災地に向かった小笠原


 遠藤は、鹿島の先輩である小笠原がたった1人で被災地に向かったことを静岡滞在中にニュースで知った。小笠原の母校がある岩手県・大船渡や、陸前高田に物資を運んでいた。その後、チームの再始動で久しぶりに小笠原に会うと、その顔つきに遠藤は驚かされたという。

「もう、すごい形相というか、ものすごく疲れ切った顔をしていて。きっと満男さんも現地に行くことで迷惑になるんじゃないかとか、自分の中で戦ったと思うんです。たぶん。でも自分の目で見ないと、あの人は気が済まない人だから。行動に移さないと気が済まない人だったから。だからあそこで行動に移せるのが満男さんだし、それはあの人にしかできないことなので、僕はただただ『すごいな』と思うばかりでした」





 遠藤はそんな先輩の姿を目の当たりにし、自分にも何かできるんじゃないかと考えていた。すると、小笠原がサッカー選手だからこそできる支援団体『東北人魂』を立ち上げて、東北出身の選手で活動しようとしている、という話を聞いた。

「満男さん本人から直接言われたわけではなくて、スタッフから聞いたんです。たぶん満男さんは、自分が直接言ったら強制参加になるんじゃないかと気遣ってくれたんだと思います。それを聞いた時は『もちろんやるよ!』って即答でしたね。僕も少しでも何かの役に立ちたい。その思いが強かったです」

 そうと決まれば、遠藤の行動は早かった。

 早速宮城県の友人たちと連絡を取り、6月には東北人魂の名を掲げた初めてのイベントを主催した。その場所が石巻だった。



 石巻の小学生が150人ほど集まったサッカー交流会は大盛況だった。そしてその中に、小学5年生の菅原はいた。サッカーの楽しさを再認識したばかりだった菅原は、この頃はもう、頭の中はサッカーでいっぱいになっていたという。

「当時はいろんなイベントがあったので、まだ5年生だったのもあり、実はどれがどれだったかは正確には覚えていないんです。ただ、寝ても覚めてもサッカー、みたいにはなっていました(笑)。学校の休み時間、放課後、時間さえあればすぐ友だちと集合して『サッカーやろうぜ』って言って。本当に毎日ボールを蹴っていました」





 ボールを介して触れ合うことで、少しの時間でも子どもたちが笑顔を取り戻してほしい――。この一心で行われた遠藤らによるイベントは、その後の東北人魂の活動の指針となった。    

(つづく)





◆「すぐに満男さんに言わなきゃ!」活動12年“東北人魂”にいた石巻の小学生がJリーガーに…新築の家が全壊した少年を支えたサッカー教室(Number)



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