2011年、復興支援を目的に東北サッカーの普及に尽力してきた「東北人魂」。いつか、子どもたちの中からJリーガーが現れてほしい――発起人である小笠原満男らは、そんな思いを胸に活動を続けてきた。
発足から13年目の今年、当時参加していた少年の1人がついにJリーガーになった。チームメイトになる遠藤康(34歳)の証言をもとに、“再会”までの道のりを秘蔵写真と共に辿る。
待望の時は、2022年の夏に突然やって来た。
ベガルタ仙台の遠藤康は、練習前の軽いジョギングをしていると、ある若い選手から声をかけられた。
「あの……僕、子どもの頃、東北人魂のイベントに参加したんです」
遠藤は思わず大きな声を出してしまった。
「えっ???」
東北人魂とは、東日本大震災を受けて、小笠原満男ら東北出身のJリーガーたちが東北地方におけるサッカー発展のため2011年に立ち上げ、活動している団体「東北人魂を持つJ選手の会」の通称だ。
いつかこの活動で触れ合った子どもたちの中からJリーガーが現れてほしい――参加している選手たちは皆、それを合言葉のように口にしながら取り組んできた。まさにその思い描いていた瞬間が訪れた時だった。
当時まだ大学生で、内定先のベガルタ仙台に練習参加をしていた菅原龍之助は、遠藤に向かってこう続けた。
「石巻に最初に来てくれたイベントと、その後もまた石巻で……」
遠藤は興奮を隠しきれなかった。
「石巻! 行った!! その時にいたんだ!! すごいな!! すごいよ!!」
その話を聞いた後は、正直、嬉しさと感動で練習に身が入らなかったと、遠藤は笑う。
「もちろん当初の活動では復興支援が大前提でしたけど、選手の思いは、いつかはここからJリーガーが出て欲しい、その思いが一番にあったので。やっと出てきたなぁと思うと感慨深かったですし、何より早く(小笠原)満男さんに言いたい! って、そればかり考えていました(笑)」
2011年3月11日。その時、遠藤はバスの中にいた。
生まれ故郷の仙台を出て、高校卒業から15年在籍していた鹿島アントラーズの試合のため、東京駅へ向かうバスの中だった。突然バスが止まると、大きな揺れを何度も感じ、やがて車内のテレビには津波の映像が映し出され、遠藤は言葉を失った。
「その時は何にも考えられなかったですね。自分の家族は大丈夫なのかとか、友達や知り合いも……いや、そういうところまで心配する余裕もなかった。だって、自分が想像もしていないことが起きているから。これが本当に現実なのか。まだ自分の目の前で起きているのであれば現実だと認識できるけど、テレビで見ていることだから、そこまでなかなか自分の中に入ってこない。どこか他人事だし、だけど自分の家族とかも関わっているしで、なんとも言えない不思議な感じでした」
ショッキングな映像が立て続けに目に飛び込んできて、不安だけがどんどん増幅していく。しかし自分達も肝心の試合がどうなるのか、このあとどうするのかなど、車内は騒然としており、そんな状況に何から心配したらいいのか、頭が回らないような状態だったという。
「とにかく鹿嶋に戻ろうってことになったけど、高速道路は全部止まっていて、下道で十何時間かけて帰ったのを覚えています。その間も、電話は全然繋がらないし、自分の親にも連絡が取れない。だからクラブの寮に着いても眠れない。しかも、試合もまだあるのかどうかもわからないしで……どうしたらいいのかわからなかったですね」
地震発生から丸1日経った頃、ようやく仙台に住む家族たちと連絡がつき、無事を確認することができた。
「もう大丈夫だよ、と聞けてひとまず安心はしましたけど、向こうはかなり大変そうでした。それでもやっぱり心配なので『俺も帰ろうか?』とは聞いてみたけど、来られても困るからいいよって言われてしまって。確かに1人増えるだけで必要なものも増えてしまう。居ても立ってもいられませんでしたけど、邪魔になるだけだなと、思い止まりました」
その後Jリーグの中断が決まり、チームは一時解散。遠藤は家族のケアをしつつ、練習再開までの間は、静岡にある祖母の家に身を寄せていたという。
2011年3月11日。その時、菅原は宮城県石巻市に住む小学校4年生だった。
学校が早く終わった日で、放課後は当時通っていた、学校近くのそろばん塾にいた。そこで、激しい揺れに襲われた。
「そろばんをしていたらガーッと地震がきて……。そこからどうしよう、どうしようってなったんですけど、そろばんの先生が『学校にとりあえず行きなさい』って言ってくれたので、すぐに小学校に逃げました。僕の三つ上の兄も中学校が終わっていた時間だったので、小学校に避難してきて、そこに母も間に合って。その後は……学校から津波が来る様子を見ていました。車が流されたり、人が流されたりっていうのを見ていました」
菅原の家族は皆無事だったが、その津波でクラスメイトや友だちの親などが犠牲になったという。
地震発生から2日ほど、菅原はそのまま避難所となった学校で過ごした。
「まだその頃は道などに津波の被害にあった方の遺体があちこちに見受けられるとのことだったので、両親が僕たち子どもにショックを与えないように、先に自宅とその周辺の様子を見に行って、大丈夫そうだったら家に一緒に帰る、みたいな感じで、迎えに来てくれました」
当時見た町の光景は鮮明に覚えているという。中でも菅原は両親に連れられて自分の家に戻った時のことは忘れられないと話す。
「実は、12月に建てたばかりの自宅だったんです。それが3カ月後には全壊になってしまった。新しい家が一気にぐちゃぐちゃになっていた姿は、目に焼き付いています。1階は水で埋まってしまった感じでしたが、それでも2階は住めるような状況だったので、それからは2階に住みながら1階を直す生活になりました」
電気や水道など、ライフラインの断たれた生活は5月まで続いた。親は家で火を起こしたり、修復作業をし、菅原は学校に支援物資を取りに行く係を務めていたそうだ。
「本当に、その2カ月は何もない日々を過ごしていました。被災してすぐの頃は『いつ学校始まるんだろう』とか、家の周りも本当に瓦礫がいっぱいだったので『これ、いつ直るんだろう』とか、時折ぼんやり考えたりしていましたね」
5月になると、少しずつ好きなサッカーが菅原の日常に戻ってきた。スパイクやボールなどは全て流されて無くなってしまったが、支援物資として届いたものを使ってトレーニングができるようになった。そして2カ月ぶりに、菅原の所属する少年団のメンバーが集まりフットサル大会が開催されると、サッカーへの思いが溢れ出したという。
「とにかく『あー、やっぱりサッカーは楽しいなぁ!』って思ったのは、すごく鮮明に覚えています。これからもやりたいな、やっぱりサッカー好きだな、サッカーできるっていいなって、その時何度も思いました。久しぶりにみんなでプレーしたことが、サッカーへの思いをより強くしたのかなって感じています」
その頃から、サッカーをはじめ色々なスポーツのイベントが、支援活動の一環として各被災地で催されるようになっていた。そのうちの一つとして菅原が参加した中に、遠藤との最初の出会いとなった東北人魂のイベントがあった。
遠藤は、鹿島の先輩である小笠原がたった1人で被災地に向かったことを静岡滞在中にニュースで知った。小笠原の母校がある岩手県・大船渡や、陸前高田に物資を運んでいた。その後、チームの再始動で久しぶりに小笠原に会うと、その顔つきに遠藤は驚かされたという。
「もう、すごい形相というか、ものすごく疲れ切った顔をしていて。きっと満男さんも現地に行くことで迷惑になるんじゃないかとか、自分の中で戦ったと思うんです。たぶん。でも自分の目で見ないと、あの人は気が済まない人だから。行動に移さないと気が済まない人だったから。だからあそこで行動に移せるのが満男さんだし、それはあの人にしかできないことなので、僕はただただ『すごいな』と思うばかりでした」
遠藤はそんな先輩の姿を目の当たりにし、自分にも何かできるんじゃないかと考えていた。すると、小笠原がサッカー選手だからこそできる支援団体『東北人魂』を立ち上げて、東北出身の選手で活動しようとしている、という話を聞いた。
「満男さん本人から直接言われたわけではなくて、スタッフから聞いたんです。たぶん満男さんは、自分が直接言ったら強制参加になるんじゃないかと気遣ってくれたんだと思います。それを聞いた時は『もちろんやるよ!』って即答でしたね。僕も少しでも何かの役に立ちたい。その思いが強かったです」
そうと決まれば、遠藤の行動は早かった。
早速宮城県の友人たちと連絡を取り、6月には東北人魂の名を掲げた初めてのイベントを主催した。その場所が石巻だった。
石巻の小学生が150人ほど集まったサッカー交流会は大盛況だった。そしてその中に、小学5年生の菅原はいた。サッカーの楽しさを再認識したばかりだった菅原は、この頃はもう、頭の中はサッカーでいっぱいになっていたという。
「当時はいろんなイベントがあったので、まだ5年生だったのもあり、実はどれがどれだったかは正確には覚えていないんです。ただ、寝ても覚めてもサッカー、みたいにはなっていました(笑)。学校の休み時間、放課後、時間さえあればすぐ友だちと集合して『サッカーやろうぜ』って言って。本当に毎日ボールを蹴っていました」
ボールを介して触れ合うことで、少しの時間でも子どもたちが笑顔を取り戻してほしい――。この一心で行われた遠藤らによるイベントは、その後の東北人魂の活動の指針となった。
(つづく)
◆「すぐに満男さんに言わなきゃ!」活動12年“東北人魂”にいた石巻の小学生がJリーガーに…新築の家が全壊した少年を支えたサッカー教室(Number)