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今から27年前の4月12日、鹿島アントラーズにとって忘れえぬ記憶がある。
現在、テクニカルディレクターを務めるジーコが烈火のごとく怒ったといわれるクロアチア戦の惨敗だ。スコアは1-8。結果もさることながら、内容があまりにも悪すぎた。
立ち上がり17分間で、あっけなく2点のリードを許す。新外国人助っ人のアルシンドのゴールでいったん息を吹き返したかに思われたが、その後も次々に失点を重ねてしまった。
会場はかつてジーコが在籍していたウディネーゼの地元フリウリスタジアムだ。不甲斐ない試合を古巣の本拠地で見せてしまい、ピッチに立つジーコの表情が見る見るうちに変わっていったであろうことは想像に難くない。
惨敗の理由は、いくつか考えられる。
当時のクロアチアといえば、旧ユーゴスラビアの分離独立に伴い、新たに代表チームを編成し、国際舞台に戻ってきて間もないころだが、タレントの宝庫として知られ、一目置かれる存在だった。実際に、のちの1996年ヨーロッパ選手権ではベスト8に進出、98年フランスワールドカップでは3位という好成績を残している。
鹿島戦には、その中心的メンバーのFWスーケルやMFボバン、DFヤルニが出場していたのだから、難敵にほかならない。
しかも、ヨーロッパの各国リーグで活躍するクロアチア代表の選手たちはシーズンの真っただ中だった。かたや、鹿島の選手たちは日本サッカー界初のプロリーグであるJリーグの開幕を約1か月後に控え、チーム作りの最終段階。置かれた状況に違いがあった。
当日は雨模様で、イタリアの芝生の感触は日本の慣れ親しんだ芝生のそれとは異なる。天候がよければ、より深い傷を負ったかもしれないが、そんな仮定の話はともかく、ズタボロにやられても致し方がなかっただろう。
つまり、相手が悪すぎたのだ。
だが、そうした空気感を負けず嫌いのジーコは安易に受け入れなかった。
試合に勝つか、負けるか。それはやってみなければわからない。自分たちの思い描くとおりにいつも勝てるわけではないが、だからといって、はなから負けていい試合などあろうはずもない。猛烈な悔しさが引き金となり、怒りの沸点を超えた。
「どんなに相手が強くても、どんなに苦しい状況に置かれても、最後まで全力を尽くさなければいけない。それがプロとしてのあるべき姿だ」
ジーコがチームに伝えたかったのは、同じピッチに立つプロとしての気概だった。
クロアチア戦の惨敗から10日後、イタリアの名門インテルとの練習マッチが組まれた。FWスキラッチ、MFベルティ、DFベルゴミ、GKゼンガと、90年に地元イタリアで開催されたワールドカップの主要メンバーがずらりと顔をそろえていた。
これまた強豪だ。名前負けどころの騒ぎではないだろう。
だが、闘争心にあふれる鹿島はひるむことなく、戦った。40分ハーフで、フレンドリーマッチの様相が色濃い試合だったとはいえ、1-1という結果にジーコをはじめ、首脳陣は手応えを感じた。
クロアチア戦とインテル戦を比較したとき、スタメンに2つの変更点が挙げられる。それまでCBのバックアッパーだった大卒ルーキーの秋田豊が右SBに抜擢され、中盤の守備的な位置に石井正忠が入ったのだ。
最終ラインはCBコンビが大野俊三と奥野僚右(大卒ルーキー)、左SBが大場健史、そして右SBが秋田。攻撃的な大場が高いポジションを取ることが多く、実質的に奥野、大野、秋田による3バックといったイメージだった。
中盤は本田泰人、サントス、石井が3ボランチのような形になり、ジーコの守備の負担を極力軽減し、攻撃に専念してもらうというのが狙いだ。2トップのファーストチョイスはアルシンドと長谷川祥之。インテル戦のスタメンが、その後のチームの原型となった。
およそ3週間にわたるイタリア遠征を終え、日本に戻った鹿島はフルミネンセ(ブラジル)との親善試合を2試合行ない、5月16日のJリーグ開幕に臨んだ。
地元カシマスタジアムに名古屋を迎え入れての一戦は、ジーコのハットトリックとアルシンドの2ゴールで、会心の勝利を飾る。この勢いのままにサントリーシリーズを駆け抜け、何と2節を残した段階で、初代王者に輝いた。
サントリーシリーズ優勝の要因を紐解いていくと、やはりクロアチア戦にいきつく。93年4月12日、あの惨敗が転機となって戦う集団と化した鹿島はチャンピオンチームに相応しいマインドを身につけていったのだから。
文●小室功(オフィスプリマベーラ)
◆神様ジーコが激怒した日――27年前の4月12日から“常勝鹿島“の歴史は始まった(サッカーダイジェスト)