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日本人選手の欧州クラブへの移籍は通過儀礼とも言える。これまでにもセリエA、ブンデスリーガなどに多くのサムライが挑戦したが、自身の成長を求め新天地にフランスを選ぶ者も少なくはない。現在も酒井宏樹や川島永嗣がリーグ・アンで奮闘中だ。今回フットボールチャンネルでは、そんなフランスでプレーした日本人選手の挑戦を振り返る。第2回はMF中田浩二。(取材・文:小川由紀子【フランス】)
トルシエに必要だった中田の存在
2005年1月、中田浩二は高校卒業と同時に入団した鹿島アントラーズから、フランスで人気ナンバー1を誇るマルセイユへと移籍した。
この移籍は、日本代表での恩師であるフィリップ・トルシエのたっての希望で実現したものだった。2004/05シーズンの11月、マルセイユはカップ戦とリーグ戦で立て続けに宿敵パリ・サンジェルマン(PSG)に敗れると、サポーターは試合をボイコット。ジョゼ・アニゴ監督は辞任し、後任に迎えられたのがトルシエ監督だった。
1月中旬、「テストを兼ねた練習参加」という形でマルセイユに呼ばれたが、トルシエ監督は最初から中田を取るつもりだった。
ちょうど1月に鹿島との契約が切れるタイミングだったこともあり、移籍金の問題で交渉は難航。最終的にフリー移籍で落ち着いたが、今度はマルセイユが書類の記入ミスでリーグ側から移籍が承認されず、入団発表が行われたのはなんと2月中旬となっていた。
しかし、その席で中田は「ヨーロッパでも日本でも有名な名門マルセイユに入団できるのは、本当に素晴らしいこと。トルシエ監督とは4年間ずっと一緒にやっていたので、監督のサッカーは知っている。監督は、僕がサッカーをやる上で大切な存在。監督の力になって恩返しができるようにやっていきたい」と、堂々と抱負を語った。
トルシエ監督は、日本代表で成功した3バックのシステムをマルセイユでも着任後すぐに実践したが、慣れない戦術に選手たちは戸惑い敗戦を招いた。さらには3時間ぶっ続けのトレーニングといった異例のスパルタ式や、コミュニケーション面でも新指揮官のやり方に違和感を覚える選手が続出。夏に入団したばかりのワールドカップ王者ビシェンテ・リザラズも移籍を志願して、冬のメルカートで古巣のバイエルン・ミュンヘンに舞い戻ってしまった。ゆえに中田は、トルシエ監督にとって左サイドバックのポジションを埋めてくれる貴重な戦力だった。
しかしそれだけでなく、フランスでプロクラブを率いた経験ゼロで、マルセイユのようなもっともプレッシャーのあるクラブを率いることになり、選手やファン、メディアから試されている状態にあったトルシエ監督にとって、自分の戦術やサッカー哲学を理解している中田は、心強い懐刀のような存在でもあった。
入団会見の翌日、監督はさっそく中田をリザーブチームの練習試合にフル出場させ、3-5-2のフォーメーションで前半は左のウィングバック、後半はボランチ、攻撃的MFと複数のポジションを試した。リザーブチームの監督は「ハイレベルな大変いい選手。3バックディフェンスに対しては自動的に対応できる術を備えている」と初陣を評価。
中田に対し「トルシエが連れてきた未知の存在」という印象を抱いていた地元の記者たちも、当時17歳の新鋭サミール・ナスリに後方からクロスを上げる戦術練習を見て「クロスやセンタリングがとんでもなく巧い」と感嘆の声を上げた。
3月に入り、ようやく選手登録に必要な条件がすべて整い、待望のデビュー戦の日がやってきた。対戦相手はサンテティエンヌ。フランスの歴代タイトル数1、2位を競う古豪とのダービーマッチだった。
ところがこの日、サンテティエンヌは大雪に見舞われ2、3m先も見えない状態。慣れないコンディションの中、中田は懸命にボールを追ったが、この試合で人々の記憶に残った彼のプレーはおそらく、雪に足をとられてボールを空振りしたシーンだけだった。このシーンはいまだに『リーグ・アン史に残る珍場面』として語り継がれている。
攻撃マインドを至上とするマルセイユのサポーターは、ディフェンダーであってもいかに攻撃に絡んだかで評価する。1対1のデュエルを制することができるか、そしてゴール付近まで攻め上がったら、たとえディフェンダーも躊躇なくゴールを狙う、そんなプレーが求められる。
中田は前に上がった仲間のカバーに回ったり、気の利いたロングパスを出すなど冷静な判断で良い仕事をしていたが、熱いマルセイユファンにはクールすぎたようで、「コージはグッドプレーヤーだがマルセイユのスピリッツには合ってない。オレたちが好むのは、プレーからガッツがあふれ出すような、そんな熱い選手だ」というような辛口コメントも聞かれた。
しかし、マルセイユ番記者の中でも重鎮中の重鎮、『ラ・プロヴァンス』紙のマリオ・アルバーノ記者は、中田をよりフェアな視点で評価していた。
「プロ精神に溢れ、真面目で集中力がある。複数のポジションをこなせることが切り札だ。他の選手のような強力なキック、ヘディングといった武器こそないが、逆に弱点も少ない。テクニックは確かでボールコントロールも巧い。パスも正確だ。そして、どのような場面でも落ち着いている」
エゴをむき出しにするタイプの選手を見慣れていたアルバーノ記者にとっては、中田が真摯に取り組む姿勢も衝撃的だった。
「彼は2軍の試合でもプレーした。1軍選手は呼ばれても断るか手を抜くのが普通だが、ナカタは試合のリズムをつかみ、己を強化するため、と言って真面目に取り組んだ。2軍監督も『これほどプロ意識が高い選手は見たことがない』と感心していたよ」と話していた。
チームメイトからも「ナイスガイ」だと人気だった。「コージ」という名前はフランス人にも呼びやすかったらしく、チームのムードメーカーだったディフェンダーのアビブ・ベイは、「コージはもうすっかり溶け込んでいるよ。何年も前からここにいる選手だっけ?って錯覚しそうなほどだ」と笑いをとり、MFのブライム・エムダニも、「驚異的なスピードで、いろいろなことを学び取っている」と目を丸くしていた。
微妙なニュアンスを含むフランス語の指示にはすぐに反応できなかったり、自分の言いたいことを的確に伝えられない苦労はあったはずだが、頭に詰め込んだサッカー用語と電子辞書を頼りに中田はコミュニケーションに努めていた。
デビュー戦のあとは続けて4試合に出場し、『フランス版クラシコ』と言われるPSG戦にも先発フル出場した。しかしこの試合では、後半開始直後にオウンゴールを献上するという、針のむしろに座る思いも味わった。
マルセイユはそのシーズンを5位で終えトルシエ監督が解任になると、監督の肝入りで招かれた中田の去就も危ぶまれたが、後任のジャン・フェルナンデス監督は欧州カップ戦参戦も踏まえ、複数のポジションをこなせる中田を貴重な戦力として計算に入れていた。左サイドバックはナイジェリア代表の肉体派、タイエ・タイウォが本命だったが、プレシーズンでは、ボランチなど、様々なポジションで試されていた。
シーズンオフに行われたインタートト・カップ(現在は消滅)が、おそらく中田にとってマルセイユでのクライマックスだ。この年、マルセイユは決勝に進出。それまでのラウンドでは出場機会がなかったが、スペインのデポルティーボ・ラコルーニャとの決勝戦で、中田は先発に抜擢された。
第1レグでは失点に絡み、マルセイユは0-2で敗れたが、ホームでの第2レグで5-1と大勝すると、マルセイユは劇的な逆転勝利をおさめた。中田にとっても先発フル出場した試合で初めての勝利。地元紙も、『マルセイユの歴史に残る名勝負で自己最高の試合をしたことで、彼は一つ壁を乗り越えたようだ』と評価した。
それだけに、9月から事実上の「戦力外」となり、ベンチに座ることすらなくなったのは非常に残念だった。その理由は、イスラエルのベイタル・エルサレムからの高額の移籍オファーを断ったことだと言われた。カップ戦などでたまに起用されることはあったが、トレーニングすらファーストチームに参加できず、若い選手たちと一緒にランニングをする姿を見かけたこともあった。
ある試合でのこと。記者室でフェルナンデス監督から「君は日本人メディアだよね?」と声をかけられた。
「コージはランニング一つにしても絶対に手を抜かない、本当に真面目で精神力の強い選手。その姿勢には驚きとともに敬意を覚える。私は長いこと監督をしているが、コージほどプロ意識の高い選手にはこれまで会ったことがない。彼の今後の成功を願ってやまない」。
監督の方からわざわざそれを言いにきたことに驚いたが、指導者歴20年のベテラン、フェルナンデス監督には、真面目に取り組む選手がクラブの政治的な都合で飼い殺し状態に置かれているのが堪え難かったのだった。そして、そんな境遇にいても、中田の口から軽い愚痴レベルでさえ不満らしい言葉を一切聞くことがなかったのは、実際、尊敬を覚えるほどだった。
結局、その冬のメルカートでスイスのバーゼルとの移籍がまとまり、中田は新天地へと巣立っていった。
『マルセイユの歴代失敗移籍』というタイトルの記事には、中田浩二の名前が挙がる。サンテティエンヌ戦での空振り映像とともに。
アグレッシブさに欠けるという点は、常に課題に挙げられていた。マルセイユファンが好むタイプのプレーヤーでなかったのも事実。しかし玄人ファンや記者からは、精度の高いパスや、周りとバランスをとる動きの巧さといったディフェンダーとしての本質の部分は評価されていた。
外から見ればトルシエ監督に翻弄された感じもあったが、中田自身にとっては海外移籍のきっかけを得て、異国でのサッカーを体験し、その後バーゼルで充実したキャリアを送るための基盤となる経験だったことだろう。
それに、フランスでプレーするサッカー選手なら誰しも夢の舞台だと憧れるマルセイユ対PSG戦のピッチに立ち、クラブ史に残るインタートト杯決勝のラ・コルーニャ戦にフル出場して「中田のベストマッチ」と言わしめるパフォーマンスを披露した。それはまぎれもなく、プロ選手冥利に尽きる体験であったはずだ。
(取材・文:小川由紀子【フランス】)
【了】
◆05年、中田浩二。『歴代失敗移籍』はフェアな評価か? トルシエの愛弟子はなぜ戦力外となったのか【リーグ・アン日本人選手の記憶(2)】(フットボールチャンネル)