鹿島アントラーズ シーズンレビュー2005 [DVD]
「まだやれる」
「もっとやれる」
心の中ではそう思っていても、現実がそれを阻むことがある。それはサッカー選手に限らず、誰しもあることだ。だが、それを打ち破り、その言葉を現実にする人間はそう多くはいない。
中島裕希はその限られた人間の1人だ。
筆者は彼が富山第一高校の1年生の頃から取材をしている。当時からその身体能力と、それを自らの意思でコントロールする能力に長けた選手だった。ピッチ上を飛び跳ねるように駆け回り、前線からの守備はもちろん、攻撃に切り替わる瞬間にDFの視界から消え、裏のスペースに飛び出して決定的なチャンスを作る。野性味と知性の両方を感じさせるプレーはかなり魅力的だった。
31歳で告げられた契約満了。
2003年に高校の偉大なる先輩である柳沢敦の背中を追うように鹿島アントラーズに入団すると、ルーキーイヤーから出番を掴んだ。'06年に活躍の場をベガルタ仙台に移してからは、当時J2だったチームにおいて、ストライカーとして躍動。プロ5年目の'07年には初の2桁得点(10ゴール)をマークし、'09年のJ1昇格にも貢献した。
'12年にモンテディオ山形に移籍すると、ここでもゴールを量産。'13年にリーグ40試合出場、12ゴールをあげ、翌年には自身2度目となるJ1昇格を果たした。
だが、山形が1年でのJ2降格を喫した'15年シーズン終了後、彼は契約満了を告げられる。
「このシーズン、リーグ戦で31試合に出場していたのに、サッカー人生で初めて『ゼロ提示』を受けて、本当にショックだった。まだまだやれるのに、悔しかった」
当時31歳の彼にいきなり突きつけられた現実。その後、彼にはもっと厳しい戦いが待っていた。
「最初はトライアウトを受けないつもりだった。『多分オファーがくるだろう』と安易に考えていた。でも、オファーがなかった。それで代理人と話をしたら、『まだまだやれるというのを、トライアウトで示したほうがいい』と言われたんです。僕の中でトライアウトに出るのは恥ずかしいこと、屈辱のようなイメージがあった。でも、代理人の言う通りだと思い、出場を決めました」
相馬直樹監督との縁。
トライアウトは独特の雰囲気だった。それぞれの前所属チームのジャージを着た選手たちが集まり、各自でアップをして、いきなりミニゲームと全体ゲームをこなす。即席チームで、一度も顔を合わせたことがない選手と試合をするため、連係面は当然バラバラ。自分をアピールすることは難しかった。
「点を取れなかったし、『あ、終わった』と思った」
だが、試合後にFC町田ゼルビアの相馬直樹監督が中島に声をかけてきた。
「相馬さんは『(オファーを)考えているよ』のひと言だけでした。それ以外は話していませんが、もう僕はオファーを待つしかできない状況だったので、連絡がくるのを待っていました」
その数日後、町田から正式なオファーが届いた。この時、他の2クラブからも話があったが、どちらもJ3のチーム。唯一、町田は翌シーズンからJ2に昇格するクラブだった。
「僕の中で40歳くらいまでは現役をやりたいという目標がある。まだまだ目標の手前でJ3にいくとなると、上にあがるのは難しい。だからJ2以上でやりたかった。それに相馬さんは鹿島時代に選手として一緒にプレーしているし、山形時代はヘッドコーチだった。そういう縁もあるし、何より自分を必要としてくれた。町田でもう一度輝きたいと思ったし、30を過ぎても成長できることを示したかった」
中島を刺激した町田サッカー。
町田に拾われた形で加入した中島は、その言葉通りブレイクの時を迎えた。そのきっかけとなったのが、相馬監督が積み上げてきた、町田の姿だった。
「正直、衝撃でした。『こんなにみんなが一生懸命、頑張るチームなんだ』と。練習から一切手を抜かないし、本当に頑張っている姿に刺激を受けた。これが相馬さんが長い間、町田に植え付けた、積み上げてきた姿勢なんだと思った。練習環境は鹿島、仙台、山形と比べると、決して良いとはいえない。練習ピッチも人工芝だし、管理棟のようなところで着替えていた。
でも、環境がすべてではないと思えたし、逆に『自分たちの力でこの環境を良くしたい』とも思えた。初心に戻ったというか、がむしゃらにサッカーに打ち込むことができた」
相馬監督のもと、ストライカーとしてリーグ42試合すべてに出場し、32歳にしてキャリアハイの14ゴールをマーク。翌'17年には11ゴール、さらにクラブ史上最高順位の4位と大躍進をした昨年は12ゴールをあげた。3シーズン連続の2桁ゴールで、今や押しも押されもせぬ“町田のエースストライカー”に成長を遂げたのだった。
フィットした中島の特徴。
「相馬さんの、前に速くて、ハードワークするサッカーが僕には合っていた。特にサイドバックの裏を徹底して狙いにいくので、そこからの積極的な仕掛けができる。加入当初から相馬さんに言われていたのは、『攻守のファーストスイッチになってほしい』ということ。
ただ、闇雲に動き出しても、周りがそれを見てくれなければ意味がないので、ボールを持ったCBやサイドバック、ボランチの顔が上がった瞬間に、動き出してあげる。出し手と受け手のタイミングと意思疎通が大事で、どこにスペースがあるかを確認しつつ、味方の顔が上がった瞬間にタイミングよく裏に抜ける。この3年間でこのプレーがより磨かれたし、ゴールという数字にもつながっていると思う。
相馬さんや町田というクラブは、もう一度活躍の場を与えてくれたし、自分がまだできることを示せた。町田の未来のためにやることに、生きがいを感じることができた」
あと一歩まで迫ったJ2優勝。
感謝の念と、自分の可能性への自信。今年、ここに新たな気持ちが芽生えている。
それはクラブとして目標に到達できなかった悔しさと、“僅かな差”の重みだ。
「あと1点取っていたら優勝という経験は、どのチームでも経験できることじゃない。4位という成績は胸を張っていいことだけど、あと1点、あと1勝をしていれば優勝できたシーズン。その悔しさは絶対に忘れてはいけない」
ライセンスの関係でJ1昇格が不可能だった昨年。それでもチームはJ2優勝に向けて最後の最後まで全力を尽くした。この経験を無駄にしないためにも、J1昇格の可能性がある今季は中島にとっても、チームにとっても勝負の1年となる。
「左サイドハーフ、大丈夫?」
今季、町田は開幕戦で東京ヴェルディに勝利するも、そこから3連敗を喫し、スタートに躓いた。しかし、第5節の鹿児島ユナイテッド戦で連敗を止めると、そこから立て直し、第9節終了時点で4勝4敗1分の9位につけている。
今季、中島はまだ1ゴールしか取れていない。だが、今の町田において彼の存在は絶対的となっている。
それを証明したのが第9節のアビスパ福岡戦だった。この試合、中島はFWではなく、左サイドハーフとしてスタメン出場をした。
「いきなり相馬さんから『左サイドハーフ、大丈夫?』と言われて、『大丈夫です』と答えただけです(笑)」
彼のキャリアを見ても、左サイドハーフでの出場はほぼ記憶にない。町田に入ってからは公式戦では1度もない。だが、そのポジションに慣れているかのように効果的なプレーを続けた。単に左サイドで張り付くだけでなく、FWの時と同様に相手DFを見ながら、絶妙なポジション取りでボールを引き出すと、ボールを失うことなく味方にきっちりと繋いだ。
18分。中央に入り込んで相手DFの縦パスをインターセプトすると、素早く持ち直して前に仕掛け、自分が空けた左サイドのスペースに動いたFWジョン・チュングンへスルーパス。落としたボールをDF下坂晃城が受けた瞬間、中島はニアのスペースに一気に潜り込み、相手のDFを引きつけた。スペースが空いたファーに下坂がきっちりとクロスを送り、FW富樫敬真が合わせた。
相馬監督「彼は時間を作ることができる」
この日の貴重な先制点の起点となると、78分に交代を告げられるまで、攻守にわたり「ファーストスイッチ」となり続けた。左サイドの攻撃を活性化し、守備でも連動したプレスまで幅広くこなす。ゴールという結果がなくても、中島がピッチにいることのメリットはとてつもなく大きかった。
2-0の勝利を掴んだ後の相馬監督の記者会見。中島のことに話が及ぶと、「あまりこういう場で個人のことをたくさん語りたくないのですが……」と前置きをして、こう口にした。
「彼は時間を作ることができる。そして、攻撃でも守備でもスイッチを入れることができる。もちろんスピードを持っている選手だけど、それだけではなく、『次の一手』を逆算した中でプレーできる。一手先まで読める選手なので、攻撃でもボールを受けるだけで終わらずに、次のことを考えて受けてくれる。彼の良さが出て、周りの選手の良さを引き出してくれていたと思います」
相馬監督の絶大な信頼と、それに応える中島との固い絆がそこにはあった。
慣れないポジションでも「楽しい」
だからこそ、多くを語らなくても、意思疎通は容易だった。
「前の試合でジョンがFWとしていい動きをしていたので、別のポジションでの起用はあると思っていた。もう、そこは(監督との)信頼関係ですよね。言われたことをやるだけ。それに左サイドハーフは運動量が多いポジションで疲れたけど、やってみて楽しかった。
でも、やっぱり反省はあった。自分のところで起点になって、フィニッシャーよりも攻撃の起点を意識したけど、俺たちのチームはFWが相手サイドバックの裏で受ける分、FWよりも逆サイドの中盤にシュートチャンスがあるサッカー。俺もボールを出すばかりではなく、出したあと点を取るためにもっと中央でプレーしても良かったのかな。もっと中に入って、シュート狙いたかったな」
尽きることのない探究心。これもまた彼が30歳を超えても成長し続けられる理由でもあった。
「J1は記念じゃないんです」
「とりあえず俺は優勝をしたい。昨年できなかった悔いが残っているからこそ、とにかく優勝したいし、J1への思いは相当強い。でも、ただ昇格だけを目標にしていてはいけない。山形の時はレベルが違って1年でJ2へ落ちてしまった。上がるだけではなく、ちゃんとJ1で戦って残留する。その先も考えてこだわらないと、上がっても1年で落ちてしまう。それではいけない。J1は記念じゃないんです。
それに今、スポンサーもたくさんついて、天然芝の練習グラウンドもできる。そういう町田の進化をしていく姿、過程に携わっていることに喜びと生きがいとやりがいを感じているんです。町田をもっと安定したクラブにしたい。俺の歳でこう考えながらサッカーできることが幸せなんですよね」
中島裕希、34歳。今年の6月16日をもって35歳となる彼の野望と向上心は、さらに燃え盛ろうとしている。
「昨年を超える。これが大事。それが自分の進化にもつながる。もうすぐ35歳、まだまだ周りに負けていられないし、やりますよ。だって俺は40歳まで第一線でやりたいから。35歳でJ1に返り咲くことはなかなかない。普通はみんな急に落ちたり、徐々に落ちていく。それに30歳を超えたら、本人がまだやれると思っていても、周りがその環境を与えてくれない。それはゼロ円提示で気づくことができた。
だからこそ、今が当たり前ではなく、ありがたいこと、幸せなことと感謝してやりきる。それが町田への思いであり、僕を拾ってくれただけでなく、輝かせてくれた町田への恩返しだと思っています」