ジーコの下で選手もフロントもプロの集団に変わった
Jリーグにおいて、最多の20冠を獲得してきた鹿島。強化責任者として、そのすべてに関わってきた“満さん”こと鈴木満氏(現・強化アドバイザー)に、歴史の舞台裏やクラブの歩みを訊いた。30周年の節目を迎えた日本サッカー界の今後に向けて、示唆に富んだ金言の数々をお届けしたい。
※本記事はサッカーダイジェスト2023年5月11日号から転載、一部修正。
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――初代の川淵三郎チェアマンからJリーグ加入は「99.9999パーセント無理」と言われた状況から、オリジナル10としてJリーグに加盟しました。まずは、当時のチームの様子を聞かせてください。
「私はチームのコーチだったので、加盟の交渉には立ち会っていません。チーム(前進の住友金属工業蹴球部)は日本リーグ1部と2部を行ったり来たりする状況で、正直オリジナル10に入れるとはあまり考えていませんでした。もちろんクラブが手を挙げたのは知っていましたし、いろんな交渉をしているのは理解していましたが、無理だろうと。当時はそんな思いでした」
――そうした状況を覆してJリーグのオリジナルメンバーになりました。何が要因だったのでしょうか?
「交渉の詳細は分かりません。1万5千人規模のスタジアム建設予定などもありましたが、チームとしてはやはりジーコの存在が大きかったと思います。91年に来日して、日本リーグ2部でも1シーズン戦いました。それでも当時は、ホームタウンのハンデもあるし、チーム力もまだまだ不十分という評価。『ビリになるなよ』と川淵さんに言われていたように、自分たちも中位にいられれば、くらいに考えていたのが正直なところです。
しかし、ジーコは常に勝利を目ざしていました。一番思い出深いのは、何度も語られているJリーグ開幕直前に行なったイタリア合宿です。ジーコが自分で笛を持って、指揮し始めたあたりから、チームの雰囲気がガラッと変わったんですよ」
――実際にどんな変化があったのでしょうか?
「来日後もジーコは一貫してチャンピオンになるという意識でチーム改革に取り組んでいました。まず、選手たちは世界的な名手のジーコを間近で見ることで、プロはこうあるべき、プロとはなんぞやということを実感しました。
もちろん練習も厳しかったですよ。さらに、練習方法だけでなく、生活も変化が出て、チームにプロ意識が芽生えてきました。一方で、当時は日本にプロサッカークラブがなかったわけですし、どこのクラブもフロントが何をやったら良いか分からない、そんな状況でした。ただ、そこでもジーコがプロのフロントとはどうあるべきか、何をしなければいけないかを示してくれました。
いち選手としてだけでなく、日本にプロリーグができる、Jリーグのプロジェクトに自分の経験を活かしたい、そんな意欲が高かったのを覚えています。クラブを作り上げていくフロントの側面も果たしてくれました」
――それが今もクラブの伝統として残るジーコイムズの始まりですね。
「勝つためには何をしなければいけないかを口を酸っぱく言われました。その薫陶を受けて、クラブ全体が勝利のためにという意識のもと、勝つことへの執着心、そのための一体感を重視するようになりました」
――そんなチームは、93年の開幕戦で名古屋に5-0で勝利。ジーコもハットトリックの大活躍でした。
「93年の5月15日、ウチは16日か(鹿島の開幕戦は5月16日の名古屋戦)。今振り返っても開幕戦を5-0で勝ったのは大きかったですね。やってきたことが間違いではなかったとクラブ全体で自信を深められました」
――結果、初年度の第1ステージを制しました。
「他クラブもJリーグ発足時はフロントの仕事や役割が分かっていなかったなかで、ウチはジーコがいたおかげで、選手だけでなく、フロントがアマチュアからプロに変わっていくことができた。それが、最初の成功につながったのでしょう」
――初のリーグ制覇は満さんが強化部の責任者になった96年でした。
「クラブに携わる人間の意識改革やスキルアップもありましたし、クラブや社長の経営判断、戦略が大きかったです。開幕当初はヴェルディとマリノスの2強と言われていて、人気もありました。スカウト活動をするうえでも、その2チームと競合すると選手が獲得できないという状況が続きました。まずは彼らに追いつき、追い越さなければならないと考えていました」
――どんな経営判断があったのでしょうか?
「93年のJリーグ発足当初は、世の中もバブルで、どこのチームも満員で何もしなくてもスタジアムが一杯になっていました。ところが、バブルがはじけて、親会社や責任企業の経営が思わしくなくなった95年あたりから、Jリーグも企業経営の縮小路線の影響を受けるようになりました。
しかし、鹿島では2強に追いつくためにも勝たなければいけないと、苦しいなかでも、ジョルジーニョやレオナルド、ビスマルクら助っ人を獲得して、本気で1番を目ざしました」
――世の中が躊躇してブレーキを踏んでいるなかで、アクセル全開で突き進んで行ったわけですね。
「ほかにも、2002年のワールドカップが日本で開催されると決まり、カシマスタジアムへのワールドカップの誘致を狙いました。ワールドカップの会場になれば、1万5千人規模のスタジアムが4万人以上の規模に拡大できる目途もありました。
当時は1万5千人規模のスタジアムがいつも満員で、ハガキで応募すると倍率80倍ほどのプレミアチケットになっていて、スタジアムが大きくなれば、それだけ集客も見込めると。だから、当時はここで無理しても、勝てばスタジアムが大きくなって、経営的にも、もっと大きくなれるという判断に踏み切りました」
――自治体の協力を得るなど、地域と一体化し、街とともに発展してきた歴史でもありますよね。
「Jリーグ発足当初のホームタウンは、まだ鹿島町で人口4万5千人くらい(1995年9月に大野村を編入して鹿嶋市へ。合併直前、94年の鹿島町の人口は4万6035人)。あの頃はそんなに人が出歩いていないような土地でした。当時のメディアには、暴走族がスタジアムに応援に来て、町から暴走族が減ったとか、いろんな記事がありました。
そういうこともあったのだと思います。そんな町も、アントラーズができて、活躍し始めたことで、世の中に認知されるようになりました。それまで日本国内で“鹿島”を知る人はほとんどいなかったのに、どこへ行ってもアントラーズの“鹿島“と言われるほど知れ渡りました。みんな自信を持てたというか、住民たちの意識も変化したように感じます」
――タイトルを取った影響が大きかったのでしょうか?
「やっぱり勝ったからですよね。Jリーグがスタートした頃はチーム力やホームタウンの基盤も弱く、正直いつまで持つのかなという危機感もありました。だから勝たなければチームが存続できないと、必死でした」
――切実さがピッチ上にも出ていたのでしょうか?
「そうですね。そういう必死さ、危機感を持って取り組んだことが結果につながったのでしょう」
――初優勝から2000年代初頭まで、次々とタイトルを獲得しました。
「96年に初タイトルを獲ると、他クラブと競合しても選手を獲得できるようになりました。96年に柳沢(敦)が入ってくれて、98年には本山(雅志)、小笠原(満男)、中田(浩二)、曽ケ端(準)らが加入。スカウトが成功するようになったのは大きかったですね。
チーム編成の大きな流れとしては、90年代は外国籍選手のビッグネームを連れてきて勝った。その遺産や実績を駆使しながら、2000年以降は79年組(小笠原、本山、中田、曽ケ端ら1979年生まれの世代)を筆頭にスカウトで獲得した優秀な日本人選手を育てながら勝利を重ねてきました」
――最も記憶に残っているのは、どの時代のチームでしょうか?
「いろいろありますが、やはり開幕当時でしょうか。打倒ヴェルディで、直接対決は他のゲームよりもさらに力を発揮するようなチームでした。その後は、ジュビロとの2強時代があって、次はレッズがライバルに。今はフロンターレですね。フロンターレには全然勝てていませんから、打倒フロンターレに燃えてます」
――思い出深い選手は?
「やはり、一番はジーコですね。クラブ全体の礎を築いてくれました。それと、僕が30年ほどチームに関わってきているなかで、やっぱり小笠原も特別な選手です」
――どんなところが特別だったのでしょう?
「小笠原よりも上手い選手はチーム内でもいました。例えば同期の本山は、小笠原よりも上手かったですよ。でも、チームを勝たせる力というか、そんな存在感は小笠原が抜群でした。彼は個人で17タイトルに関わっていて、彼がいたからタイトルが獲れたとも言えますよね」
海外移籍の増加でチーム編成に変化。打開策は育成と移籍
――そんな黄金世代も現役を退き、しばらく経ちます。近年のJリーグをどう見ていますか?
「これまでJリーグは共存共栄で進んでいましたが、2017年にDAZNと契約して、競争意識を強めています。同時に2010年以降、特に15、16年あたりから、選手たちの海外移籍も活発化してきました。
以前は、20歳そこそこでレギュラーになったら、その後10年間は主力で、というチーム作りのスパンがありました。その年のチームと併せて、3年後にどうなっていくかまでを意識すればチーム作りができました。しかし、若手を育てても、主力になっていてほしい選手が3、4年後には抜けてしまう。そんな時代になり、チーム編成や強化の仕方が変わってきています」
――Jリーグでトップを走ってきたからこそ、他クラブに先立ってその問題に直面しました。
「解決策としては、アカデミー強化と移籍での選手獲得をハイブリットでやろうと考えています。選手が抜けても次々と新しい選手が出てくる環境にすべく、アカデミーをより強化していく方針です。しかし、アカデミーの強化にはある程度、時間がかかるので、それだけでは補えません。
次に活用したいと考えたのは移籍です。鹿島はそれまで移籍市場でほとんど他所から主力を取っていませんでした。そのため、他チームを見るスカウトの強化にも力を入れています。
そうやって獲得した選手を育成していくことが次のステップです。選手育成は、例えば他のチームに選手をレンタルしながら、出場機会を確保して、そのポジションの選手が必要になった場合は、すぐに補えるような体制が理想です」
――具体的に取り組んでいることはありますか?
「入れ替わりの早さに対応するためにも、チームのサッカーそのものを、もう一度しっかりと定めていく必要があります。チームのスタイルが明確なら、どういうポジションでどんなタイプの選手が必要になるかなど、獲得選手のタイプがハッキリします。そうなれば、採用や編成のミスが少なくなるはずです」
――知念慶や佐野海舟、藤井智也らの他クラブからの移籍組。昌子源、植田直通、そしてレンタル中だった垣田裕暉らの復帰組。師岡柊生、津久井佳祐らの新卒組と今年の補強は仰るとおりの内容でしたね。
「そうですね。良いバランスになってきていると思います。獲得した選手の多くは、他所で実績を作って完成されたというより、若くてこれからの選手が多く、鹿島の色に染めるというか、育てながら、主力に成長してほしいという思いはあります。
岩政監督になって、“新しい鹿島”を謳い文句にしながらチーム作りをやってくれています。ただ、まだ固まり切っていないところはあります。けれど、現場と強化部が話し合いながら、こういうサッカーをしたいから、そのためにはこういう選手が必要だと議論を重ねています。
もっとも、その評価はタイトルを取って初めてなされるもので、編成で良い選手を獲ってきたというだけでは何の評価にもならない。良かったかどうかはもう少し先、結果が出てからですね」
――新スタイルを確立するには時間もかかりそうです。
「優勝を義務付けられているというか、サポーターもパートナー企業も、地域も、鹿島に関わるすべては、タイトルを望んでいますし、タイトルを取らないとあまり評価されなくなっているという実態もあります。18年にACLを制覇してから4年。そろそろ何かしらのタイトルを取らないといけません」
――6節の広島戦(●1-2)後にはサポーターがバスを囲み抗議する場面もありました。
「私の時代にも似たような経験をしましたが、それだけ期待が大きいということでもあります。サポーターたちの気持ちにも応えていかないといけません」
――周囲の期待や、偉大な伝統が重荷やプレッシャーになることはありますか?
「どうでしょうか。私自身は今、違う立場になっています。今までの30年の歴史があっても、同じことをやっていても上手くいかない。勝てていないのは事実ですが、時代の変化や環境の変化にアジャストさせながら、クラブ運営をしなければ、とも考えています」
鹿島らしさをベースに残しながら変化に対応していくべき
――2021年に吉岡宗重フットボールダイレクターに後任を託したのも、変化が必要だからでしょうか?
「鹿島はJの中では特長のあるクラブなので、アイデンティティというか、鹿島らしさをベースに残しながら変化に対応していくべきだと思っています。だから、ベースになる部分は、吉岡に10年間ともに仕事をするなかで伝えてきました。
今の新しい時代には、彼ら次の世代が持つ違った能力や、新しい感性が必要なはずで、そこへバトンをつなぎました。本当に残さなければいけない部分と、変えなきゃいけない部分を明確にしながら、新しい鹿島を作っていくという時代に来ていますよね」
――残すべきところとは?
「フォア・ザ・チームというか、一体感や結束力。勝ちにこだわりながら、組織で戦っていくというところです。特に、強化的な視点から言えば、選手を獲るだけでなく、ポテンシャルをいかに100パーセント、それ以上に発揮させられるか。そのマネジメントに力を入れてやってきたので、そこは強化の仕事として残していかなければなりません。
ここ数年は移籍に頼ったところもありますが、基本はアカデミーや新卒で良い選手をしっかりとスカウティングし、育てるのがベースです。プラス移籍で補うハイブリットにしないと、これからは勝てないと、今は少し強調しながらやっています」
――特長のあるクラブとはどういう意味でしょうか?
「“鹿島らしさ”とよくメディアにも言われますよね。やっぱりハードワークして戦う姿勢がベースにあって、諦めないで、泥臭くても最後は勝つ。そういう皆さんがイメージしている“らしさ”をなくしたくない、それを取り戻したいです」
――らしさを取り戻すのには何が必要でしょうか?
「伝統というか、フィロソフィーを作り上げるためには、やはりタイトルを獲らないとベースができません。次世代に継承するためには、勝っていくしかありません。いろいろ言っても、結局は伝統の継承とは勝つことでできるもの。タイトルを獲ったからこそ次につながるものがあります。
だから、そろそろ勝たないと、鹿島アントラーズそのものが根底から覆ってしまうようなことにもなりかねない。今は、Jリーグが開幕した当初と同じような危機感を持ってやっています」
――タイトルを争うライバルについてはどう見ていますか?
「フロンターレやマリノスも強いですけど、フロンターレは今、ウチと同じような悩みを抱えていますよね。どんどん強くなって、注目されて、代表選手が増えてきた一方で、次々と主力選手が抜ける現象が起きています。
どこのチームも5年、10年と安定して強いチームを作ることが難しくなっていると感じます。今季は特に、混戦です。どこが優勝して、どこが降格するのか分からないリーグ。それが面白さでもあるとは思いますが、今のJリーグを見ていると、本当に飛びぬけて強いチームがない。特に今季は、その傾向が強いのではないでしょうか。
だからこそ、クラブとして新しいフェーズに対応して、日本サッカー界のリーディングクラブになれるように頑張っていきたいですね」
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鹿島は8節の神戸戦で1-5の大敗を喫したものの、続く9節の新潟戦から4試合連続の完封勝利で5位まで順位を上げている。5月14日に国立競技場で行なわれる次節の相手は3位の名古屋。30年前の開幕戦と同じ相手に、積み上げた伝統の強さを見せつけられるか。
取材・文●渡邊裕樹(サッカーダイジェスト編集部)
◆「そろそろ勝たないと、鹿島そのものが根底から覆る」“20冠”を知る鈴木満が見据えるアントラーズの進むべき道(サッカーダイジェスト)