日刊鹿島アントラーズニュース

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2018年5月16日水曜日

◆鹿島昌子「引き分け狙ってない」歴史を塗り替える(ニッカン)





 日本勢で唯一、ACLで勝ち残る鹿島アントラーズは15日、上海上港(中国)との決勝トーナメント1回戦第2戦に向けて、敵地の上海体育場で汗を流した。

 第1戦を3-1で快勝したが、相手はホームでACL無敗を誇る強敵。それでもDF昌子は「トータルスコアでの勝ちは目指していない。勝ちにいくサッカーをしたい」と誓った。試合が行われる5月16日は25年前の93年に、ジーコのハットトリックで鹿島の歴史が始まった日。過去5度の決勝トーナメントでは全て初戦ではね返されてきただけに、下部組織から鹿島で育つMF土居は「明日、鹿島の歴史をこのスタッフ、チームメートと塗り替えたい」と誓った。(上海=今村健人)


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鹿島昌子「引き分け狙ってない」歴史を塗り替える




◆大迫、ブレーメン決定的 複数年か(報知)





 日本代表FW大迫勇也(27)の、ドイツ1部ブレーメンへの完全移籍が決定的になったことが15日、分かった。関係者によると、条件面で大筋合意に達しており、細部の詰めを残すのみ。複数年契約とみられ、近日中にも正式発表される見通し。ドイツメディアは同日、大迫がブレーメンのメディカルチェックを受けたと報じた。

 大迫は日本代表として出場した14年ブラジルW杯終了後の14―15年シーズンからケルンでプレー。しかしチームは今季、最下位で2部降格が決まった。今季リーグ戦25試合に出場し4得点だったが、欧州の複数のクラブが獲得を打診。去就が注目されていた。

 ブレーメンはドイツ1部リーグで4回優勝した名門クラブ。1981~86年には、奥寺康彦氏(現横浜C会長)がプレーしたこともある。今季はシーズン途中から、35歳のコーフェルト氏が監督に就任。開幕10試合で勝ちなしと低迷したチームを再建し、11位で1部残留を果たした。

 12日に今季最終節を終えた後には「コンディションは今、すごくいい」とロシアW杯に向けて、体調面の心配がないことを強調していた。精神面でもスッキリした状態で、本大会に臨むことができそうだ。

 ◆ブレーメン 1899年、ドイツ北部のブレーメン市に設立。本拠地はヴェザー・シュタディオン(収容4万2100人)。フロリアン・コーフェルト監督(35)が今季途中から指揮を執る。2017―18年シーズンはドイツ1部11位。奥寺康彦氏(66)=横浜C会長=がかつて所属した。ドイツ1部4回優勝。ドイツ杯6回優勝。欧州のタイトルでは、UEFAカップウィナーズカップ(1999年に終了)を92年に制した。


◆【鹿島】決戦の地・上海でACL上海上港戦へ調整 気温35度猛暑も植田「問題なし」(報知)





 日本勢で唯一、ACL決勝トーナメント(T)に進出し、クラブ史上初のACL決勝T初戦突破を目指す鹿島は15日、試合会場の上海体育場で上海上港との第2戦に向けた最終調整を行った。

 この日の上海の最高気温は35度。湿度も90%を記録するなど蒸し暑さの中で約1時間の調整を行ったが、DF植田直通は「問題なし」とキッパリ。「自分たちから攻撃を仕掛ければ優位に試合を運べる」と決戦を見据えた。DF昌子源は「中国のサポーターは声援が独特。何でもないプレーに沸いて雰囲気が上がる」と警戒し、「誰がどう見ても上海上港は強い。そのチームにホームでもアウェーでも勝てれば、他のチームは驚くはず」と勝利を誓った。

 鹿島は9日にホームで行われた第1戦を3―1で勝利。引き分け以上で初戦突破が決まる。負けても条件付きで勝ち抜けが可能だが、3点差をつけられての黒星や、鹿島がアウェーゴールを奪えず無得点に終わり、2点以上を失った場合は敗退が決まる。


【鹿島】決戦の地・上海でACL上海上港戦へ調整 気温35度猛暑も植田「問題なし」




◆鹿島 ACL決勝T1回戦初突破へ指揮官攻めの姿勢「90分間で終わらせる」(スポニチ)


ACL決勝トーナメント1回戦第2戦 鹿島-上海上港 ( 2018年5月16日 上海 )





 鹿島は初のACL決勝トーナメント1回戦突破を懸けた16日の第2戦・上海上港戦に向け、上海市内で調整した。 

 MF三竿健を右膝痛で欠く中、ベンチ入りできる18人よりも多い19人で上海に乗り込み、体感気温40度という灼熱(しゃくねつ)の中で調整した。

 第1戦を3―1で先勝し優勢だが、会見に出席した大岩監督は「守りに入るのではなく積極的に点を取りにいき、試合を90分間で終わらせることを考えたい」とキッパリ。下部組織出身のMF土居は「タイトルを獲りたい気持ちは人一倍ある。明日、鹿島の歴史をスタッフ、チームメートと塗り替えたい」と意気込んだ。 


鹿島 ACL決勝T1回戦初突破へ指揮官攻めの姿勢「90分間で終わらせる」



◆鹿島土居「歴史を塗り替えたい」鬼門の第2戦へ気合(ニッカン)





 日本勢で唯一、アジア・チャンピオンズリーグ(ACL)で勝ち残っているJ1鹿島は16日、敵地で上海上港(中国)との決勝トーナメント1回戦第2戦に臨む。

 第1戦を3-1で快勝し、有利な形で第2戦に臨む大岩剛監督は15日、会場の上海体育場で公式会見に臨み「明日の試合は我々がリードした状態からスタートするので、試合をしっかり自分たちがコントロールする。守りに入るのではなく、積極的に得点を取りに行く姿勢を見せながら、90分で終わらせることを第一に考えて臨みたい」と話した。

 鹿島は過去5度の決勝トーナメントで1度も初戦を突破できていない。歴史を変えられるか。下部組織から鹿島で育ったMF土居聖真は「たくさんのタイトルを取ってきたのを見たり、経験してきましたが、唯一このACLを取っていないので、僕個人としては取りたい気持ちが人一倍あります。明日、鹿島の歴史をこのスタッフ、チームメートと、塗り替えたい」と誓った。


鹿島土居「歴史を塗り替えたい」鬼門の第2戦へ気合




◆ロシアW杯日本代表候補 昌子の再生秘話 荒れた空白期間から引き戻した両親の愛(デイリー)








 6月14日開幕のサッカーW杯ロシア大会に向け、4年に一度の祭典を目指す日本代表候補の転機、成長の軌跡に迫る「蒼き侍たちの原点」。第2回はJ1鹿島のDF昌子源(25)。サッカー一家に生まれ、G大阪ジュニアユースに入団してエリートコースを歩みかけたが、一度はサッカーから遠ざかった。挫折を経験し、自分を見失った昌子を再びサッカーに引き戻したのは、時に厳しくも息子を信じ続けた両親の愛情だった。

  ◇  ◇ 

 生まれた頃から、昌子の傍らにはいつもサッカーがあった。父の力氏(54=姫路獨協大監督)は長く指導者を務めており、08年にはJFA公認S級ライセンスを取得。母の直美さん(55)はソフトボール選手として日本リーグでプレーした後、日本女子サッカーリーグ(現なでしこリーグ)の田崎真珠神戸レディース(TASAKIペルーレ=08年休部)にも所属した“サッカー一家”だった。

 家の中には柔らかく小さなサッカーボールが転がっていて、昌子は物心つく前から自然とボールを蹴り始めていた。部屋に布団を敷いて“GKごっこ”にも夢中になった。最初は自分で投げたボールを飛び込んでキャッチしていたが、そのうち父をGK役にシュートを放つようになり、ボールを蹴る楽しさを知っていった。

 屋外でボールを蹴り始めたのは幼稚園の頃だった。その後、近所のクラブチーム、フレスカ神戸に入団し、小学4年になると6年生の試合に出場するようになった。恵まれた体格の現在とは違い、当時はさほど体は大きくなかったという。「食が細くて食べるのが苦手。好き嫌いも多くて、好きな白ご飯やおにぎりばかりをひたすら食べる子でした」と、母は偏食家だった一面を明かした。

 FWとして頭角を現していった昌子はトレセン(選抜)の常連となり、関西トレセンまで上り詰め、中学になると関西トレセンの大半が集まったG大阪ジュニアユースへと進んだ。同期には宇佐美貴史(デュッセルドルフ)、大森晃太郎(FC東京)ら逸材がそろっていた。

 だが、順調だったサッカー人生が蹉跌(さてつ)をきたす。G大阪とは水が合わず、次第にサッカーから距離を置くようになった。多感な時期のさまざまな葛藤に苦しみ抜いた昌子は、練習にも行かなくなり、中学3年の秋にG大阪を退団した。

 楽しかったはずのサッカーから離れ、時間と若さを持て余した昌子は荒れに荒れた。「目つきも顔も人に対して敵対心丸出しだった」と父は振り返る。夜の公園やコンビニに仲間とたむろして座り込んだ。学校では教師につかみかかり、両親には「高校なんか行かへん」と吐き捨てた。

 両親は、昌子がケンカで殴った相手の家まで息子を連れて謝罪に行ったこともあった。「どんな理由があれ、人様に手を出したらこういうことになると見せとかんといけない。親が頭を下げる姿を見せることも大切やと思った」(力氏)。玄関の前で何日も何時間も、頭を下げる両親の背中を見つめさせた。

 ある日の夜中、父がふと目を覚ますと、昌子の部屋はもぬけの殻になっていた。怒りに震えた父は帰りを待ち伏せ、明け方隠れるように帰って来た息子を捕まえ、顔が腫れ上がるまで何度も殴りつけた。やるせない思いをぶつけるように、母も一緒になって息子を叩いた。「何がそんなに気に入らんの」。涙ながらに問い掛けた母に向かって息子は返した。「俺は…自分のことが大嫌いなんや」。行き場を失った叫びは両親の胸に深く突き刺さった。

 「私も家で投げ飛ばされて、最後は泣きじゃくって、あの子に飛びかかったことがありました」。そんな母を息子は心なく突き飛ばした。だが、そこで母親がか弱い存在だと気付いた。「吹っ飛んだ私を見てショックを受けたみたいで、それから徐々に(素行が)良くなっていきました」。

 少しずつ落ち着きを取り戻した昌子に転機が訪れた。父がインストラクターを務めていたJFA公認B級ライセンス講習会。その受講生に鳥取・米子北高コーチ(当時)の中村真吾氏がいた。昌子の将来を案じた中村氏は練習参加を持ちかけた。最初は固辞していた昌子だったが、「背中を押して欲しいはず」と感じた父が「お父さんの顔を立てて一回だけ行ってくれ」と頭を下げると、ようやく折れた。

 「行ってもええけど、サッカーはせえへん」。昌子は両親にそう告げたが、2人は見抜いていた。必ず「一緒にやっていかないか」と誘われるはずだと。その時にボールを蹴れるように、父はスパイクと練習着を車に隠して持って行くよう引率の母に頼んだ。果たして、中村氏から声を掛けられ、何も用意をしていないと答えた息子に、母はスパイクと練習着をそっと差し出した。久々にサッカーで汗を流し、昌子の心の中で何かが変わった。何度か練習に参加した後、ふと漏らした。「俺、米子北に行ってもええよ」。そして昌子は、もう一度ボールを蹴り始めた。

 「根っから悪い子なんていない。いつか必ず自分の道を見付けてくれる」と両親は息子を信じ続けた。自宅を出て最初の曲がり角まで続く100メートルほどの道。角を曲がる直前に息子はいつも振り返って手を振った。その姿は、幼く無邪気だった頃から自分を見失いかけた中学3年になっても変わることはなかった。「周りからは『昌子源って最悪やん』と思われていたかもしれないですけど、振り向いて手を振るあの子を見て、私たちは信じることができました」(直美さん)。息子をサッカー選手にするつもりなどなかった。ただ、人生をリセットして、もう一度喜びにあふれた日々を送ってほしい。両親の願いはそれだけだった。

 サッカーに嫌気がさした中学時代。練習への送り迎えの車中で、母は「大きくなったら、宇佐美君にパスを出すのはあんたやで」と励まし続けた。「うるさいわ。そんなことできる訳ないやろ」と息子は反発した。それから10年余り、昌子が先発としてA代表デビューした15年3月の親善試合ウズベキスタン戦(大分)で、宇佐美は後半途中から出場。2人はチームメートとして同時に代表のピッチに立った。母の言葉は現実のものとなった。

 生まれた時に当たり前のようにあったサッカーを一度は失い、痛みを知った。母親に手を上げ、人の弱さも知った。そうして、昌子のサッカー人生は再び始まった。






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