【中古】 鹿島アントラーズ シーズンレビュー2009 THE 3 PEAT 三連...
148ゴール。浦和レッズのFW興梠慎三は、現在J1でプレーする選手の中での最高得点記録保持者である。その魅力的な人柄とプレーでファン・サポーターからの人気も高い。スポーツ配信サービスDAZN(ダゾーン)では、DAZNソーシャルで実施したファン投票結果を受けて制作されたドキュメンタリー「Jリーグプレイバック#2興梠慎三~進化を続けるエースの分岐点~」を10 日に公開した。番組では、彼のサッカー人生の分岐点を見て来た先人たちの証言と貴重な資料、映像により、興梠慎三の姿が浮き彫りにされている。
■1学年上の増田誓志に触発されて
チームメートたちが背番号30に駆け寄る。重ねてきた得点シーン。相手守備の密集の中から前へ抜け出してのヘディング。一瞬の緩急と駆け引きでの流し込み。そして真骨頂、ナナメに走り込んでのワンタッチ。湧き上がる歓声。
8年連続J1二ケタ得点は前人未到の記録だ。なかでも特筆すべきはその決定力の高さ。昨季は43本のシュートを放ち12ゴールをマークした。決定率は二ケタ得点を記録した選手の中で最も高い27.91%となっている。
宮崎県・鵬翔(ほうしょう)高校の校舎。興梠は中学を卒業後、地元のサッカーの名門・鵬翔高校へと進んだ。当時の指導者、松崎博美サッカー部監督(現・鵬翔高校サッカー部アドバイザー/J.FC MIYAZAKI取締役会長)は語る。
「1,5列目が得意でしたね。上背があるほうでもなかったですし。前で待っているよりも運動量が多いトップ下、相手のマークを振りほどいたり、フリーのところに入っていったり。そういう動物的なところはありました」
興梠は松崎監督の誘いを受けて名門サッカー部に入部したが、強豪校ならではの壁にぶち当たる。
「夏休みまで持たなかったですね。同学年で県、トレセンクラスの選手が集まっていて、興梠慎三はBチームでした。面白くないようで『サッカーをやめたいやめたい』とずっと言っていました」
サッカーに背を向ける興梠を何度も呼び出し、松崎監督は説得を試みた。語る松崎監督と、高校時代の貴重な写真。
「あるときAチームに呼んで、増田誓志(元鹿島、山形、大宮など/引退)とコンビを組ませたんです。当時増田誓志は別格でうまかったですから。そこで興梠慎三の負けず嫌いというか、虫が騒いで頑張りだしたのが、いい結果に繋がった気がするんです」
1年先輩の増田に触発された興梠は、3年生の時には全国高校選手権でチームを初のベスト8へとけん引するなど、その名は全国レベルとなっていく。そして、高校卒業後の2005年、先輩の増田がいる鹿島アントラーズに加入する。
■興梠の横にはマルキーニョスがいた
当時の鹿島でセンターバックとして活躍していた岩政大樹氏は語る。
「彼が入った中盤のポジションには小笠原満男がいて本山雅志がいて、野沢拓也がいて、増田誓志が出て来てっていうところでしたから、チャンスを与えられる可能性はなかったというところが一番大きかったと思いますね」
多くのルーキーと同様、プロの洗礼を浴びた興梠。鹿島加入から2年間でのスタメン出場はわずか2試合で得点はゼロ。そんな彼が活路を求めた場所、それがフォワードだった。岩政氏は「相手を背にして構えてポストプレーをすると見せてドリブルでえぐっていくほうが得意でした。前向きでプレーすることが多い中盤よりも後ろ向きでプレーすることが多いFWのほうが特徴に合ったと思います」と振り返る。プロ初ゴールは2007年第14節・大分トリニータ戦、当時の指揮官はオズワルド・オリヴェイラだった。
ストライカー、興梠慎三、誕生の瞬間。そこにはクラブに脈々と受け継がれる育成方針が大きく影響していると岩政氏はいう。
「鹿島では成長していく若手選手の横には大体素晴らしいベテラン選手がいる。僕は大岩剛さんとプレーしましたし、柴崎岳は小笠原満男とプレーしました。そして、興梠慎三はマルキ(マルキーニョス)が横にいた」
興梠が2トップを組んだマルキーニョス。外国籍選手として歴代最多のJ1通算153ゴールを記録したブラジル人ストライカーとのプレーは、興梠を大きく成長させた。J屈指の2トップは08年J1を席巻。そして翌09年最終節、自らのゴールで鹿島3連覇を手繰り寄せた。
■興梠獲得を熱望したミシャ監督
鹿島で8シーズンを過ごした興梠は2013年、浦和レッズへ移籍。興梠獲得を熱望したのが、当時浦和を率いていたミハイロ・ペトロヴィッチ監督(現・北海道コンサドーレ札幌監督)だった。「攻守両方ができ流動性がありフィジカルコンタクトを持ち合わせた選手。私の考える1トップに必要な全てを彼は持っていた」と笑顔で当時を振り返る。
「指導したのはオフ・ザ・ボールの動きの質です。相手の裏や空いたスペースに抜け出す素質を持っていましたから、どのタイミングでどこに動き出せば効果的なのか、どうスペースを作るのか、ボールのないところでの動きの質を彼に求めました」
ミシャ監督に求められた1トップのタスクに、見事に応えてみせた興梠。当時ともにプレーした那須大亮氏は語る。
「役割を与えられたことで、今までやっていた能力が最大化された。彼の能力を引きだしたのは間違いなくミシャ監督の戦術、やり方だと思います」
新境地を切り開きゴールを量産、浦和のエースとなるが、移籍4年目の2016年、ある出来事が起こる。
夏に行われたリオ五輪にオーバーエイジ枠で選出されると、日の丸を背負って戦い切った。浦和に戻って来た興梠は「燃え尽き症候群」のような状態に陥ってしまう。サッカーに対する気持ちを失いかけてしまっていた。しかし、興梠を立ち直らせたのは、ここでも恩師。ミシャの言葉だった。
「どんな状況でも君に対する評価というのは変わらないし信頼している。もし休むのなら休んでもらって構わなないし、できると言うのなら私は信頼して起用すると伝えました」
■人との出会いが変化をもたらした
そして翌17年自身初の20得点。19年には第18節・ベガルタ仙台戦でクラブ通算(J1)92ゴールを決め、福田正博氏の記録を抜く。J1新記録となる8年連続の二ケタゴールも記録した。流れるゴールシーン。梠慎三のサッカー人生を振り返ると、人との出会いが、彼を大きく成長させてきた。
ミシャ監督は言う。
「選手としてはもちろん、素晴らしい人間性を持っています。非常に正直で強烈な個性と強い意志を持っていて私の大好きな選手のひとりです。慎三、大好きですよ!」
興梠慎三、33歳。多くの人に導かれ、ここまで辿り着いた異能のストライカー。浦和での通算100ゴールまであと一つ。Jリーグ再開後、どんな進化した姿を見せてくれるのだろうか。楽しみは尽きない。ドキュメンタリー「興梠慎三~進化を続けるエースの分岐点~」はDAZN(ダゾーン)で配信中だ。